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COLUMN

最終兵器「Z」と天才科学者たち 第1回イントロダクション

最終兵器「Z」と天才科学者たち 第1回イントロダクション

最終兵器「Z」と天才科学者たち 第1回イントロダクション
ライター

河守 晃芳

私の通っていた中学校は、静岡県の島田市にある。子どものころ、そんな島田市に第二次大戦中、とある秘密兵器研究所があったという話を聞いたことがあった。それがきっかけで、中学時代から、それを長らく調査・研究してきた。大学生となった現在まで調査してきて、今こそ、まとめて伝える時期が来たと思う。今回はそんな島田市にあった秘密兵器研究所の詳細を、連載形式(全20回という長期連載の予定)にて伝えていこうと思う。

 

 

 

 島田実験所で開発されていた最終兵器とは?

 

 

目次

 

・殺人光線「Z」について

・Z=殺人光線!?

・山本五十六の望み

・都市伝説ではなく…

・研究していた科学者を紹介

 

 

 

戦後すぐに中日トピックに掲載された殺人光線の特集記事。このように、電磁波でB29を撃ち落とす兵器を本気で開発していたのである。

 

 

最終兵器「Z」について

 

 

 

静岡県島田市。ここに大戦中、日本の期待を一身に背負った秘密兵器研究所があった。その名も「第二海軍技術廠島田実験所」という。ここでは、当時、日本を代表する科学者が一堂に会し、研究に勤しんでいた。後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎を始め、「日本の原子物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄を含む錚々たるメンバーが研究に従事していた。また、日本初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹もこの研究所を訪れている。

 

最初のトップ画像を見てほしい。これは1944年4月18日に島田実験所の敷地内で撮影された写真である。右から4番目が湯川秀樹で、3番目が朝永振一郎である。のちにノーベル賞を受賞する二人が、同じ写真に写っているという、大変貴重な写真である。

 

 


大戦中、島田実験所があった場所は、現在では特殊東海製紙(株)となっている。

 

 

Z=殺人光線!?

 

 

ここで研究に従事していた科学者たちは後述するが、それをみると、あまりにも豪華な布陣に、驚きを感じざるをえない。一体、ノーベル賞級の人材を抱え、何を開発しようと考えていたか。それは大きな疑問であろう。実は、ここで開発が進められていたのは、「殺人光線」といわれる電波兵器である。これは、迫りくるアメリカの爆撃機を、電磁波ビームで打ち落とそうという兵器であった。現代でいうところの電磁パルス兵器と考えていただければいい。当時、この兵器は暗号で「Z」と呼ばれていた。アルファベットの最後の文字から、最終兵器を意味したのである。

 

 

山本五十六の望み

 

 

第二次世界大戦末期、ミッドウェー海戦の敗北をきっかけとして、通常では挽回できないほど日本は追い詰められていた。そこで、当時の連合艦隊司令長官である山本五十六は、戦局を逆転させる超兵器の開発を指示した。超兵器の開発は、山本のみならず、日本海軍全体の悲願でもあった。そこで、原爆とともに白羽の矢が立ったのが、この兵器である。日本の敗北が決定的になったなか、起死回生の最終手段として、最後の望みが託されたのである。それは日本最高の科学者と潤沢な資金を一か所に集中させれば、素晴らしい兵器が開発できるだろう、というわずかな希望である。こうして、Z研究は幕を開けたのであった。

 

 

最終兵器「Z」の開発を最初に指示したのは、山本五十六であった。

 

 

他国では?

 

 

殺人光線(電波兵器)の研究は、世界中で行われていた。アメリカでは、ニコラ・テスラが行っていたことで有名である。また、ナチスドイツも、X線を用いた日本とは違う殺人光線の道を模索していた。また、日本の中でも、陸軍の登戸研究所も、殺人光線の研究をしていた。こうした状況の中、海軍は科学者の精鋭を集めて研究に励んでいた。一体、その「最終兵器」は完成したのか。その真実に迫っていきたい。

 

 

磁束密度の単位であるテスラ(T)に名を残す天才科学者ニコラ・テスラ。彼の研究していた殺人光線は、完成したのだろうか・・・

 

 

都市伝説ではなく…

 

 

この島田実験所は、大戦中の期待とは裏腹に、健在ではほとんど知られていない状況である。取り上げるほとんどのものが都市伝説のたぐいのものであり、信憑性を欠くものがあまりにも多い。このままでは真実が忘れられてしまい、嘘の情報だけが世の中に残ることになってしまう。そんな危機感が私を執筆に向かわせる原動力であった。わたしは、この島田実験所に対する「正しい情報」が広まってほしいと切に願う。これまで、これを単なる都市伝説に終わらせてはいけない、と自分に言い聞かせながら執筆してきた。一人でも多くの人がこの記事を読み、島田実験所の偉大なる歴史に触れてほしいと思っている。

 

 

以前、テレビ東京の「やりすぎコージー」という番組の都市伝説のコーナーにおいて、東貴博さんがこの最終兵器「Z」について取り上げていた。以下がその動画(音声のみ)であるが、この最終兵器「Z」における放送では、間違いが多かったため、誤解が広まってしまっている。この番組では、Z研究が電子レンジの開発に繋がったように言及しているが、それは今のところ不明である。また、模擬原爆と島田実験所に、直接的な関与はない。このように、現状では、間違った言説が広まっているため、正しい情報が不足していると私は危惧している。

 

 

 

 

次回から、島田実験所の歴史や、各科学者の活躍など、詳細に渡って解説いていく。楽しみにしておいてほしい。

 

 

研究に参加した科学者を掲載

 

 

※名前・写真をクリックすると、Wikipediaのページに飛びます。

 

仁科芳雄

 

「日本現代物理学の父」と呼ばれる世界的科学者。ヨーロッパでは、量子論の生みの親であるニールス・ボーアのもとで学ぶ。その時、オスカル・クラインと共に導いた「クライン=仁科の公式」はあまりにも有名。世界で2番目にサイクロトロンを完成させる。理化学研究所の所長も務め、近年の新元素の命名において「ニシナニウム」も代表的な案の一つであった。東京帝国大学卒。戦前は京都大学において、湯川秀樹や朝永振一郎を指導。また、戦後初めて文化勲章を受章した。戦前は原爆研究(二号研究)に注力していたが、1995年4月、東京大空襲により設備が焼失。その後、島田実験所の研究に参加した。

 

 

 

 

湯川秀樹

 

日本初となるノーベル賞受賞者。原子核内部において、中間子の存在を理論的に予言したことが、ノーベル物理学賞の受賞に繋がった。京都帝国大学卒。湯川は、研究所に2度訪れている記録がある。島田実験所においては、研究室を持たなかったため、研究者として常勤していたわけではない。また、研究に直接的にコミットしていたわけではない。島田実験所では、研究者に対する講義をしたり、情報交換をしたりしていた。そもそも戦時中、湯川秀樹が何をしていたのかはほとんど記録にない。

ちなみに、私は湯川秀樹と一緒に研究していた方や、親族の方にも直接話を聞いてきた。湯川のことを聞くと、誰もが口を揃えて「素晴らしい方だった」と言っていたことが大変印象に残っている。非常に穏やかな人柄で、いかなる学問分野にも造詣が深かったそうだ。

 

 

 

 

朝永振一郎

 

 

日本人で2番目となるノーベル物理学賞を受賞。くりこみ理論を発案し、量子電磁力学の発展に大きな寄与をした。京都帝国大学理学部卒。彼の著書『量子力学』は、現在でも、日本語で書かれた量子力学の教科書として読み継がれている。島田実験所においては、マグネトロンの発信機構の解明に貢献するなど、大きな役割を果たした。純粋な人柄であり、ユーモアを含んだ冗談をよく言っていたそうだ。

 

 

 

渡辺寧

 

東北大学工学部長、電気学会会長、静岡大学学長を歴任。日本における電子工学の先駆者で、戦前、日本海軍のレーダーに使用する真空管開発のリーダーであった。また、日本でのトランジスタ研究における最初期の研究を統括した。他には、長距離電話中継用の独自の増幅機、および溶接制御用の放電管等を発明する。晩年は、東北大学学長に選出されるが、辞退した。文化功労者。島田実験所においては、所長を務めるなど、多大な貢献をした。

 

 

 

萩原雄祐

 

戦後、日本天文学会会長、東京天文台長を歴任。また、宇都宮大学の学長も務めた。東京帝大理学部卒。天文学の権威であり、特にラグランジュ方程式とハミルトニアン方程式の第一人者であった。教育者としても優秀であり、多数の優秀な天文学者を育成した。妻の結子は元日本銀行総裁であった深井英五の長女である。文化勲章を受章。島田実験所では、天文学的視点から、電波兵器の中核を占めるマグネトロンの理論的研究に勤しんだ。

 

 

 

水島三一郎

 

1962年と64年にノーベル化学賞の候補に選出されるも、受賞を逃している。東京帝大理学部卒。日本の構造化学の先駆者であり、東京大学幅射線化学研究所所長を務めた。近年、トムソン・ロイター引用栄誉賞を大隅良典とともに受賞した水島昇の祖父にあたる。

 

 

菊池正士

 

戦後、日本原子力学会会長、日本原子力研究所所長、東京理科大学長を歴任した。1928年(昭和3年)に電子線回折に関する実験に成功して世界的に認められた。菊池像(kikuchi patternや菊池線(kikuchi line)の発見で有名である。戦前は、原子物理学者として、長岡半太郎、湯川秀樹と並ぶほど著名であった。「男でも惚れるほど、素晴らしい方」だったという²。

※東京理科大学に画像の転載許可を申し出たが、「当ホームページの利用にしか遺族に許可を取っていない」とのことで、掲載許可をもらえなかった。本人の画像をご覧になりたい方は、東京理科大学のホームページから、歴代学長のページをを訪ねてみるといいだろう。

 

渡瀬 譲

 

戦後、大阪市立大学学長、大阪女子大学学長を務めた。宇宙線研究の草分けとして有名。京都帝国大学経済学部において、河上肇に学び、その後、東北帝国大学理学部に進学した異端の科学者であった。大阪大学では菊池正士の弟子となり、サイクロトロン建設に尽力した。渡瀬譲といえば、入試問題流出事件における真摯な対応が有名である。島田実験所においては、大型マグネトロンの開発を主にしており、渡瀬研の責任者であった。

 

 

小谷正雄

 

分子物理学者。戦後、東京理科大学の学長を務めた。東京大学名誉教授、東京理科大学名誉教授。

※菊池正士同様、東京理科大学に画像の転載許可を申し出たが、「当ホームページの利用にしか遺族に許可を取っていない」とのことで、掲載許可をもらえなかった。本人の画像をご覧になりたい方は、東京理科大学のホームページから、歴代学長のページをを訪ねてみるといいだろう。

 

小田 稔

 

天文学者、宇宙物理学者。マサチューセッツ工科大学客員教授。戦後は、理化学研究所理事長、東京情報大学学長、宇宙科学研究所所長を歴任。

 

 

嵯峨根遼吉

 

世界的物理学者で、大阪帝国大学の初代総長である長岡半太郎の実子。日本原子力研究所理事、副理事長、日本原子力発電取締役、副社長を歴任。長崎市への原子爆弾投下の際、旧知のルイ・アルヴァレらがラジオゾンデに嵯峨根あての手紙を入れ、ともに投下したことは有名である。島田にはあまり関わっていなかったそうだ。

 

 

伏見康治

 

本来の仕事である物理学、特に統計力学の分野で大きな研究業績をあげた他、戦後日本の科学研究体制の確立と発展にも力をつくし、原子力平和利用研究を推進、さらには科学者の社会的責任のアピールと行動、一般向け書籍による物理の面白さの啓発・普及、そして対称性の美の追究など、多方面に大きな足跡を残した。名古屋大学プラズマ研究所初代所長。紫綬褒章受章。実際の研究には関与していないが、頻繁に島田実験所に訪れていた。

 

 

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シリーズバックナンバー

 

 

第1回 イントロダクション(このページ)

第2回 殺人光線とは何か

第3回 島田実験所ができるまで

 

脚注

 

 

[2]島田実験所で菊池正士のもとで研究していた蜂谷謙一さん談

 

 

参考文献

 

 

・海軍「Z装置」開発計画再考-牛尾実験所遺構発掘調査経緯とA装置の考察- 河村豊

日本における強力電波兵器開発計画の系譜-戦時下の「殺人光線」に関する検討- 河村豊・永瀬ライマー桂子

・物理懇談会と旧日本海軍における核および強力マグネトロン開発 河村豊・山崎正勝

第二海軍技術廠牛尾実験所遺跡の科学史的背景 河村豊クリックで直接読めます)

・旧日本海軍の電波兵器開発過程を事例とした第2次大戦期日本の科学技術動員に関する分析 河村豊

・敗戦時「引渡目録」にみるZ兵器開発の状況 -島田実験所・牛尾実験所の施設と備品- 河村 豊

・帝国海軍Z研究 新間雅巳

女学生みよちゃんが生き抜いた「戦争」 梅島みよ

史跡が語る静岡の十五年戦争 静岡県の戦争史跡ガイドブック 静岡近代史研究会

・静岡県島田市埋蔵文化財報告 第49集 第二海軍技術廠牛尾実験所跡遺跡 2015 島田市教育委員会

・第65回企画展 島田と太平洋戦争-明日へと語り継ぐ願い-

 

 

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