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最終兵器「Z」と天才科学者たち 第3回 島田実験所ができるまで

最終兵器「Z」と天才科学者たち 第3回 島田実験所ができるまで

最終兵器「Z」と天才科学者たち 第3回 島田実験所ができるまで
ライター

河守 晃芳

島田実験所ができるまで

 

 

前回までのおさらい

 

第1回では、島田実験所で開発されていた「Z兵器」に関する概略(イントロダクション)を書いた。第2回では、殺人光線に関して詳しく記述した。今回は、島田実験所が開設されるまでの経緯について解説していこう。

 

 

目次

 

殺人光線という発想

ニコラテスラと殺人光線

日本における殺人光線開発

ミッドウェー海戦の敗北

なぜ島田だったのか

 

 

殺人光線という発想

 

 

島田実験所では、主に殺人光線の研究をしていた。しかし、いったい、どこから「殺人光線」などという奇想天外な発想が現実的な兵器として研究されていたのか、というのは、大きな疑問であろう。島田実験所の開設を理解するには、まず殺人光線の歴史的な流れを理解しておかねばならない。そこで、殺人光線という兵器自体の歴史的経緯について解説していこう。

 

殺人光線という構想が、一体いつごろ発案されたのかは定かではない。ただ、早くも1924年には、イギリスのグレンデル=マシューが、強力な電磁波を発生させることによって、飛行機のエンジンを止められることができる、と発表した。だが、実験をしたところ、まったく効果がなかったという¹。

 

 

ニコラテスラと殺人光線

 

殺人光線といえば、やっぱりニコラテスラであろう。ニコラテスラと言えば、ラジオや交流電流、蛍光灯などの発明で知られる世界的科学者である。身近な例でいえば、磁束密度の単位T(テスラ)に名を残しているが、彼は単なる科学者とは違う一面を持っていた。それは、殺人光線の研究者という側面である。殺人光線の研究者として有名担ったきっかけは、1934年に、ニコラテスラが開発した「電磁波兵器」が新聞の見出しになり、多くの人に知れ渡ってからだった²。

 

 

交流電源の安全性のデモンストレーションをするニコラテスラ。彼は、電気を遠隔で送信する技術から、殺人光線の着想を得た。

 

 

現状では、都市伝説系のサイトやオカルト系のブログで、彼の真実ともわからない言説が飛び回っている。だが、公式記録において、テスラが殺人光線を発明したという事実はない、というのが通説である。一体、彼は殺人光線を開発できたのだろうか?

奇跡的に、2016年、テスラの死後73年を経て、彼に関するFBIの公式文書が公開されることとなった。それによると、ニコラテスラの殺人光線(デス・レイ)にアメリカ政府が強い興味を持っていたことがわかる。そこには、「テスラの技術、特に電力の無線転送とデス・レイは、極めて興味深い³」と記載されている。当時のフランクリン・ルーズベルト大統領とヘンリー・ウォレス副大統領の署名もあり、アメリカ政府が、殺人光線の研究に関心を示していたことは明白である。

 

ニコラテスラが建造した無線送電装置。かれは、電磁波を用いて電気を送電する方法を開発していた。殺人光線も、その一環だったと推測される

 

 

このように、ニコラテスラが、殺人光線の研究をしていたことは明確である。ただ、それが完成したかどうかは、わからないというのが現状だ。

 

 

日本における殺人光線開発

 

日本において最初に殺人光線の開発に着手したのは、陸軍であった。有名なのは、第2回でも少し述べた登戸実験所であるが、1935年には、陸軍では研究は始まっていた。その後、いったん陸軍の殺人光線研究は下火になるが、1942年、再び登戸研究所において殺人光線の開発が始まる。

 

 

登戸研究所では、殺人光線のみならず、さまざまな秘密兵器の研究をしていた。

 

 

ミッドウェー海戦の敗北

 

太平洋戦争(日本側の名称は大東亜戦争)開戦後、日本は破竹の勢いで勝利を重ねていった。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北で、戦局が逆転してしまう。そして、島田実験所創設の直接的原因は、このミッドウェー海戦の敗北であった。それ以前の1942年3月に海軍は殺人光線の研究を立案しているが、そのわずか3か月後に、その案は現実のものとなる。

 

ミッドウェー海戦の大敗から、海軍は画期的兵器の開発を望むことになる

 

ミッドウェー海戦の敗北後の会議において、山本五十六は「通常兵器では1年ももたない」「画期的兵器を開発してくれ」ということを水間正一郎(のちの島田実験所所長)と伊藤庸二(当時の海軍レーダー研究のトップ※1)に対して説いたという。

それに、軍令部員が「なにかあるか」と質問し、伊藤庸二が「原子力の応用と大電力マイクロ波による殺人光線」と答えた。つまり、「戦局を打開するためには、原爆と殺人光線の開発が良いのではないか?」と提案したのである。そして、この伊藤の返答が、島田実験所創設の契機となる。殺人光線は、完成の望みは少ないが、実現すれば戦局を打開する超兵器となると期待されたのである。

 

石原莞爾も「最終戦争論」の中で、「最終戦争に於ける決戦兵器は航空機でなく、殺人光線や殺人電波等ではなかろうか⁵」と述べているとおり、多くの軍人にとって、殺人光線に対し、大きな期待があったことは言うまでもないだろう。

 

 

 

天才・石原莞爾は、最終戦争を決する兵器は殺人光線だと主張した。

 

 

それにしても、なぜこれほど著名な科学者を動員することができたのか。海軍技術研究所電気研究部では,先に紹介した伊藤庸二の提案をふまえ、その実行のために,外部の研究者として、理化学研究所の仁科芳雄,嵯峨根遼吉,大阪帝国大学の菊池正士らの物理学者,さらに東北帝国大学の渡辺寧ら電気工学者に呼びかけ,「核物理応用研 究委員会」(その後「物理懇談会」と呼ばれた)を開催することとした⁶。このような科学者の人脈から島田実験所に参画する科学者を集めることができた。特に仁科芳雄は、朝永振一郎や湯川秀樹とも親しかったため、島田に多数の研究者を送り込むことになる。

 

 

 

戦前、電波研究の第一人者であった伊藤庸二。

 

※1 伊藤庸二:戦前、日本海軍の電波研究を管轄していた科学者。島田実験所においても創設から深いかかわりを持つ。ドレスデン工科大学留学中、世界的物理学者であるハインリッヒ・バルクハウゼンのもとで学んだ。バルクハウゼンの助手を務めていたエーリッヒ・シェーハー博士は、伊藤に関して「伊藤は、科学の応用を重んずる天才的技術者タイプであった。しかも、科学技術の研究に情熱を注ぐだけでなく、ドイツ人の風俗、習慣、家庭生活、文化、生活観および宗教までを知ろうと心掛けていた。」と評している

 

 

なぜ島田だったのか

 

 

ところで、なぜ島田のような田舎に、これほど大規模な秘密兵器研究所が作られたのか。東京や大阪のような大都市のほうが人材が豊富なため、研究者が集まるには便利なのは間違いない。島田実験所の所長であった水間正一郎は、島田でなくてはならない理由について、以下のように述べている。

 

①空襲をうける心配がない、東京から汽車で5時間以内の場所

②強力電磁波を発生させるため、電力を多く得られる場所

 

①に関しては、島田は東京から電車で5時間以内であり、広大な土地がある。しかも、大都市とは違って田舎であるため、空襲を受ける心配がほとんどない。また、②は大井川に水力発電所があるため、それを利用すれば大電力が得られる。

 

このような理由から、島田に実験所を作られることになったのである。

 

島田市(当時は島田町)は田舎ではあったが、研究所を作るにあたっては、絶好の場所であった。

 

 

シリーズバックナンバー

 

第1回 イントロダクション

第2回 殺人光線とは何か

第3回 島田実験所ができるまで(この記事)

 

 

引用

 

 

[1]“Science: Invisible Death”,TIME, Monday, Apr. 21, 1924

[2]日本における強力電波兵器開発計画の系譜-戦時下の「殺人光線」に関する検討- 河村豊・永瀬ライマー桂子

[3]FBI Records: The Vault  Nikola Tesla(クリックして直接FBIのリンクに飛びます。英語ですが、ぜひ読んでみるといいでしょう。)

[4]水間正一郎著『わたしのあゆみ』より

[5]石原莞爾著『最終戦争論』 第十問より引用

[6]第二海軍技術廠牛尾実験所遺跡の科学史的背景 河村豊 より

 

 

参考文献

 

 

日本における強力電波兵器開発計画の系譜-戦時下の「殺人光線」に関する検討- 河村豊・永瀬ライマー桂子

第二海軍技術廠牛尾実験所遺跡の科学史的背景 河村豊クリックで直接読めます)

・最終戦争論 石原莞爾著

“Science: Invisible Death”,TIME, Monday, Apr. 21, 1924

超不都合な科学的真実 ケイミズモリ著

 

 

 

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